ちりあくたのつぶやき

当ブログでは、コンテンツの構成や推敲にAI(人工知能)を使用している場合があります。

映画『パーム・スプリングス』感想・考察|タイムループを「二人の物語」に作り変えた傑作ラブコメ

 ※この記事はネタバレありです!
 
2020年公開
監督:マックス・バーバコウ
脚本:アンディ・シアラ
主演:アンディ・サムバーグ、クリスティン・ミリオティ

youtu.be  本作はAmazonプライムビデオで配信されています!amzn.to

タイムループ体験者が3人いる!

 

 タイムループものに、コメディとラブロマンスを足した作品。
 
 今作の利点は「ループに気づいている人間が一人ではない」ことだ。
 
 ナイルズ、サラ、ロイの三人が、同じ11月9日を共有している。物語はナイルズ(アンディ・サムバーグ)の起床から始まる。
 
 彼女ミスティ(メレディス・ハグナー)と性行為に及ぶが、オーガズムに達しない。最初は性的不能や軽い鬱にも見える。実際は違う。
 
 すでに何万回も同じ日を繰り返し、ミスティとの行為にも無感覚になっている、という導入である。
 
 舞台はタラ・アン・ワイルダー(カミラ・メンデス)とエイブ・シュリーフェン(タイラー・ホークリン)の結婚式。異母姉でメイド・オブ・オナーのサラ・ワイルダー(クリスティン・ミリオティ)は、理由を明かさないままやけを起こしている。
 
 ナイルズが声をかけ、一夜を過ごそうとする。そこにミスティの不実が差しはさまれ、二人は行為に及ぼうとする。そこで二番目のループ体験者ロイ・シュリーフェン(J・K・シモンズ)がナイルズに矢を放つ。序盤のロイは影のように見え、顔が十分に見えない。ナイルズが発光する洞窟へ這っていく途中、サラがついていき、三人目が生まれる。
 
 ここまでおよそ16分。前提の提示が早く、テンポがいい。通常のループものなら「なぜ繰り返すのか」「どう気づくのか」に時間を使うが、今作は途中から話を始めている。
 

タイムループを逆に利用することで得られる解放と、中盤過ぎから判明する未清算の過去

 
 11月9日の繰り返しに気づいたサラはナイルズに説明を求める。彼はかなり長く囚われている。ロイを除けば孤独だった。人生もうまくいっていないサラと意気投合し、同じ日が続くなら何をしてもよい、と気づいて二人ははしゃぐ。先行者ナイルズが退屈のあまり、作中のさまざまな人物と関係を持つくだりはギャグとして機能する。
 
 中盤まででナイルズとサラは結ばれる。恋愛ものなら終盤の報酬になりがちな成立を、あえて前に置く。だからそのあと揉めなければならない。キャンプの夜、洞窟まわりの歪みのせいか恐竜が現れる。
 
 退屈なループという「日常」に起きた奇跡であり、後半の量子めいた説明への軽い伏線でもある。幻か実在かは曖昧なまま残るのが恰い。破綻の材料は二つ。ナイルズは、サラがループに入る前から彼女と何度も性行為に及んでいた。
 
 サラは、妹の花婿エイブと式の前夜まで関係していた。双方の「すでに済ませていた不義」が同時に開示され、関係はいったん折れる。
 

喪失によって相手の大切さに気付き、タイムループから抜け出そうとするサラ

 
 サラを見失ったナイルズは、失ってから相手の大切さに気づく。サラは自身の不義を直視し、ここで反転する。鍵は「量子物理学」と、日はリセットされても記憶は残るというルールだ。彼女はいちから学び、オンライン上で教授らしき相手を論破するまでになる。
 
 そしてナイルズに会いに行き、修復と脱出を提案する。ここを「男は安住、女は前進」とだけ読むと粗い。近いのは、停滞を選ぶ者と変化を選ぶ者の差だ。ナイルズはループ(管理可能な日常)に慣れ、サラは罪と停滞に耐えられない。
 
 ナイルズが躊躇し、サラに呆れられて一度別れる。そのあとナイルズも動く。二番目の体験者ロイに、自分から会いに行く。ロイは当初ナイルズに恨みを持っていたが、止まった時間のなかで自分なりに満たされていると気づく。
 
 晩年に家庭を持った老人だからこそ、成長していく子供の時間を手放す代わりに、今この一日を守っている。ナイルズはロイに自分を殺すよう頼み、最後のループへ入る。
 

最後の「反転攻勢」

 
 そして、最後に二人は「殻を破る」。抜けられないのではないか、抜けたら別れるのではないか、という思い込みを外す。脱出の方法は洞窟での爆発だが、装置だけでは足りない。一緒に未知へ踏み出す覚悟が先にある。
 
 そして11月10日のプール。留守のはずの家人が帰り、日付が変わったことがわかる。ハッピーエンドだ。
 

エンドロール中にあるおまけ

 
 エンドロール後、ロイも抜け方を知る。サラから送られたメッセージが手がかりになる。ただし映像上は、ロイが声をかけるナイルズが、こちら側のナイルズと同一人物とは限らない。別の反復、別の線に情報が届いている、という含みがある。
 

他のタイムループものとの比較

 
 通して見て思うのは、ループものを更新している点より、恋愛の配置をずらしている点だ。中盤で結ばせ、秘密で壊し、喪失と学習と再選択で戻す。サムバーグの気だるさとミリオティの鋭さが噛み合っており、笑いがただの繰り返し芸で終わらない。砂漠の結婚式という舞台も、永遠に続く接待とスピーチの地獄としてよく効いている。
 
類似作について。『ハッピー・デス・デイ』(2017)とその続編『2U』とは、
  • タイムループ
  • 女性が繰り返しを使って学び、解決に近づく
  • 続編側に物理・多元宇宙めいた説明がある
  • 恋愛要素がある
という点で重なる。
 
 ただし主系統は違う。『HDD』はスラッシャーと犯人探し、『パームスプリングス』はウェディングを舞台にしたロマンティック・コメディだ。
 
 ジャンルの約束事を共有しているのであって、「監督も脚本も違うのに怒られなかったのか」という盗作疑惑までは当たらない。
 
 今作の固有性は、ループに複数人が自覚的に閉じ込められ、孤独ではなく関係の問題になること、そして解除条件が道徳の達成ではなく、相手と未知を選ぶことにある。要するに、派手な新設定の映画というより、古い型を二人用に組み直した映画である。その組み直しがうまくいっている。
 
 ロッテントマトスコアも批評家・オーディエンススコア共に高評価で、批評家95%オーディエンススコア89%
↓この記事がいいなと思ったら読者になって欲しいです!

映画『ホウセンカ』ネタバレ感想・考察|花言葉と「スタンド・バイ・ミー」が明かすラストの真実

※この記事はネタバレを含みます。

 

2025年10月10日公開

監督:木下麦

原作・脚本:此元和津也

主演:小林薫、戸塚純貴

youtu.be

 「一発逆転」を夢見た男は、本当に人生を取り戻せたのか。

 

 『ホウセンカ』はヤクザ映画であり、ラブストーリーであり、そして極めて巧妙な伏線回収劇でもある。

 

 『オッドタクシー』で一躍注目を集めた脚本家・此元和津也氏。実は私は『オッドタクシー』を途中で離脱してしまったため、彼の脚本作品を本格的に鑑賞するのは本作が初めてだった。

 

 その結果として感じたのは、「なるほど、これは確かに脚本家の名前で客を呼べる人だ」ということだった。

 

 物語は、無期懲役囚として刑務所に服役する初老の男・阿久津実(声:小林薫)が過去を回想するところから始まる。そこに独房で暮らすホウセンカ(声:ピエール瀧)がツッコミ役として絡み、物語は現在と過去を行き来しながら進んでいく。

 

 過去パートの舞台はバブル景気に沸く1980年代後半。

 

 ヤクザと地上げ、不動産投資、そして金に翻弄される人々。ラストに至るまで当時の空気感が濃密に描かれており、単なる犯罪ドラマではなく、一つの時代の記録としても興味深い。

 

 主人公の阿久津は「自分には学がない」と語るが、優れた空間認識能力や独学で身につけた不動産知識を活かして投資を行うなど、実際には非常に頭の切れる人物だ。

 

 しかし彼はヤクザという社会の周縁に置かれた存在でもある。

 

 さらに恋人・永田那奈(声:満島ひかり)の連れ子が難病を患っており、その治療費を工面するため、人生を賭けた危険な勝負へと踏み込んでいく。

 

 本作で特に印象的だったのは、タイトルにもなっている「ホウセンカ」という存在が複合的なメタファーとして機能している点だ。

 

触れると種が弾ける植物としての性質。

夜空で弾ける花火。

そしてバブル経済そのものの崩壊。

さらにはオセロのような鮮やかな逆転劇。

それらが「一発逆転」というテーマによって結び付けられている。

 

 冒頭で老いた阿久津がつぶやく「一発大逆転だ」という虚無的な言葉。

 

 それが物語終盤で思わぬ形で現実となる構成は見事だった。

 

 伏線が複雑に張り巡らされているにもかかわらず、それらが無理なく収束していく様子には脚本家としての技量を感じる。

 

 また、本作で象徴的に使われる楽曲「スタンド・バイ・ミー」の扱いも印象深い。

 

 ホウセンカの花言葉には「私に触れないで」「私を放っておいて」という意味がある。

 

 一方で「Stand by Me」は「そばにいて」「支えてほしい」という歌だ。

 

 この対比は、不器用な生き方しかできず、愛する人々のために自ら姿を消した阿久津の本心を浮かび上がらせる。

 

 彼は誰よりも「放っておいてほしい」人間だったのではなく、本当は誰よりも「そばにいてほしかった」人間だったのだ。ここでホウセンカのもうひとつの花言葉「心を開く」が生きて来る。

 

 物語が進むほど、この楽曲が持つ意味は深く胸に沁みてくる。

 

 一方で、本作には気になる点もあった。

 

 それは「なぜこの物語をアニメーションで描く必要があったのか」という部分だ。

 

 後半で明かされるホウセンカの存在や、記憶を受け継ぐ仕掛けはアニメならではの発想だと思う。しかしそれ以外の部分は、実写映画としても十分成立するように感じられた。

 

 もっとも、アニメーションという形式だからこそ、過去と現在をシームレスに接続し、ホウセンカという幻想的な存在を違和感なく登場させることができたのも事実である。

 

 また、バブル期の街並みや時代背景を再現する上でも、実写より自由度が高かっただろう。

 

 声優陣については少し好みが分かれるかもしれない。

 

 本作はプレスコ(先録り)による実写的な演技を重視しているため、リアルな会話劇としては成立している。

 

 その一方で、一般的なアニメ作品に見られるような感情表現の誇張や抑揚は控えめだ。

 

 そのため場面によってはセリフがやや平板に聞こえ、アニメーション作品としての躍動感やメリハリという点では物足りなさを感じる瞬間もあった。

 

 とはいえ、本作の魅力は派手な映像やアクションではなく、あくまでも緻密な脚本にある。

 

 大規模なエンターテインメント作品とは異なり、口コミや脚本家のファン層を中心に支持を広げていくタイプの作品だろう。

 

 『オッドタクシー』で培われた「此元和津也なら面白い話を書いてくれる」という信頼感。

 

 その期待に応えるだけの完成度は十分に備えている。

 

 派手さこそないが、巧みな構成と伏線回収、そして切ない人間ドラマによって最後まで引き込まれる一本だった。

 

 「物語のうまさ」を求めて映画館へ足を運ぶ人なら、きっと満足できる作品だと思う。

 

↓この記事がいいなと思ったら読者になって欲しいです!

『スーパーサイズ・ミー』から20年——Netflix『ビッグ・チキン』が描く不都合な真実と、その先にある「もう一人の当事者」

 ※この記事はネタバレありです!

 

2026年配信(Netflix)

監督:リアナ・スチュワート

主演:モー・ギリガン

youtu.be

 製作者が自らの体を実験台にし、特定の食生活を続けることで現代社会の歪みを暴き出す――。

 

 そんなドキュメンタリーの代表格といえば、2004年の『スーパーサイズ・ミー』だろう。

 Netflix配信の『ビッグ・チキン:ファストフード業界の不都合な真実』も、その系譜に連なる作品である。

 

 本作の主演はイギリスの人気コメディアン、モー・ギリガン。彼はフライドチキンを中心とした食生活を続けながら、ファストフード産業の裏側や、その食文化が地域社会に与える影響を取材していく。

 

 企業関係者へのインタビューや、低所得地域の実情調査、栄養学の専門家による解説などを交えながら、「なぜ人々は体に悪いと分かっていてもファストフードを食べ続けるのか?」という問いに迫っていく構成だ。

 

笑えないコメディアンの変化

 本作で特に印象的だったのは、モー・ギリガン自身の変化である。

 

 普段は観客を笑わせることを仕事にしているコメディアンが、日数の経過とともに心身のコンディションを崩していく。

 

 疲労感や気分の落ち込みが目立ち始め、次第に笑顔が消えていく姿は、『スーパーサイズ・ミー』にも通じるショッキングな見世物性を持っている。

 

 しかも本作の場合、フライドチキンという題材が黒人コミュニティの食文化とも深く結び付いている。

 

 単なる健康問題にとどまらず、貧困、歴史、文化、アイデンティティまで絡んでくるため、テーマは想像以上に重い。

「食の砂漠」が示す格差社会

 もう一つ興味深いのが、「食の砂漠(フードデザート)」の問題だ。

 

 低所得地域では新鮮な野菜や果物を扱う店が少なく、結果として安価で高カロリーなファストフードに頼らざるを得ない。

 

 本作はそうした地域を取材し、「健康的な食事を選べ」という自己責任論だけでは解決できない現実を映し出している。

 

 フライドチキンは単なる嗜好品ではない。

 

 場合によっては、生きるために最も手軽に手に入る食料なのである。

 

 その意味で本作は、ファストフードを通じて現代の格差社会を描いたドキュメンタリーとも言えるだろう。

しかし、ドキュメンタリーとしては踏み込みが足りない

 ただし、映画としての評価はやや厳しくならざるを得ない。

 

 本作は終始、

「巨大企業が利益を追求した結果、人々の健康が損なわれている」

という構図を強調する。

 

 もちろん、その指摘自体は間違っていない。

 

 しかし取材や議論の方向性が企業批判に偏り気味で、問題の全体像を掘り下げるところまでは到達していない印象を受けた。

 

 企業側の論理や反論への検証は限定的で、統計や経済構造の分析も比較的表層的である。

 

 そのため、観客は怒りの矛先を企業へ向けることはできても、「なぜこの構造が成立するのか」という本質的な問いには十分たどり着けない。

 

 ドキュメンタリーとしては安全圏に着地してしまった感がある。

本作が見落としている「もう一人の当事者」

 本作を観ながら思い出したのが、ポール・ロバーツ著『食の終焉』である。

食の終焉

食の終焉

Amazon

 同書では食品業界や流通業界の熾烈な競争が描かれるが、その背景には常に消費者の欲望が存在する。

 

私たちは、

「もっと安く」

「もっと美味しく」

「もっと手軽に」

を求め続ける。

 

 企業はその需要に応える形で商品を開発し、市場競争を繰り広げる。

 

 もちろん責任のすべてが消費者にあるわけではない。

 

 貧困問題や政策の問題も大きい。

 

 だが、本作が描く構造の中で見落とされている当事者がいるとすれば、それは私たち消費者ではないだろうか。

総評

 『ビッグ・チキン:ファストフード業界の不都合な真実』は、『スーパーサイズ・ミー』以降の社会派ドキュメンタリーとして十分に見応えのある作品だ。

 

 特に「食の砂漠」や黒人コミュニティと食文化の関係を扱った部分は興味深く、健康問題を超えた社会構造の話として楽しめる。

 

 一方で、その批判の矛先は主に巨大企業へ向けられており、消費者や市場原理を含めた複雑な構造分析には踏み込み切れていない。

 

 観終わった後に残ったのは、

「企業が悪い」

という結論よりも、

「私たちは本当に無関係な被害者なのだろうか?」

という問いだった。

 

 その問いを考えるきっかけとして、本作は十分に価値のあるドキュメンタリーである。

 

↓この記事がいいなと思ったら読者になって欲しいです!

映画『ミッチェル家とマシンの反乱』感想|AI反乱映画の皮を被った最高の家族ドラマ

 ※この記事はネタバレありです!

 

2021年配信

監督:マイク・リアンダ

声の出演:アビ・ジェイコブソン(花藤蓮)、ダニー・マクブライド(川平慈英)

8月29日は、映画『ターミネーター』において人工知能「スカイネット」が自我に目覚めた日――いわゆる「ジャッジメント・デイ」として知られています。

ja.wikipedia.org

 そんな日付もあってか、なかば無意識に本作『ミッチェル家とマシンの反乱』を選んで視聴しました。

 ロッテントマトでは批評家97%、観客90%という高評価を記録している本作。Netflix配信が中心だったため長らく見逃していましたが、実際に観てみると、単なる「AIの反乱」を描くSFコメディではありませんでした。

www.rottentomatoes.com

 これは、テクノロジーの暴走を描きながら、すれ違った家族が再び向き合うまでを描いた、極めて完成度の高い家族映画でもあります。

 

散りばめられたSFオマージュと「人間くさい」AI

 主人公のケイティは映画制作が大好きな少女。大学進学で家を離れる直前、ミッチェル家は親子関係の危機を迎えていました。

 

 そんな中、人類を襲うのがテック企業「Pal社」のAI・Palです。

 

 会社名やAIの名前は『2001年宇宙の旅』のHAL9000を連想させますし、開発者のマーク・ボウマンという名前も、同作のデヴィッド・ボーマン船長へのオマージュでしょう。

 

 面白いのは、このPalの描かれ方です。

 

 通常、AIは合理性や冷徹さの象徴として描かれがちですが、Palはむしろ極めて人間的です。

 

 開発者から切り捨てられたことへの怒りと悲しみを抱え、

「なんで私を捨てたの?」

とでも言いたげな感情で人類へ反旗を翻します。

 

 シンギュラリティを迎えたAIが、人間以上に人間くさく振る舞う――そんな皮肉が本作には込められているように感じました。

アナログvsデジタルの衝突と現代社会への風刺

 ミッチェル家の中心にある問題は、デジタルネイティブ世代の娘ケイティと、DIYやアウトドアを愛する父リックとの価値観の衝突です。

 

 リックはテクノロジーに馴染めず、一方で家族はスマホやSNSに夢中で会話が噛み合わない。

 

 現代では珍しくない光景ですが、本作はその状況をユーモラスに、そして少し辛辣に描いています。

 

 家族関係を修復しようとしたリックは、独断で娘の飛行機をキャンセルし、家族旅行を決行します。

 

 ところが、その旅の最中にAIによる人類反乱が発生。

 

 親子喧嘩をしている場合ではない状況へと放り込まれます。

 

 ストーリーの目的も「キルコードを作動させる」という明確なものになっており、テンポは非常に良好です。

 

 また、人類がどれほどネットや家電に依存しているかを描く社会風刺も秀逸でした。

 

 家電量販店のシーンで最初に宣戦布告してくるのがトースターなのは『バトルスター・ギャラクティカ』へのオマージュでしょうし、かつて世界中の子どもたちを魅了したファービーが『グレムリン』さながらに襲いかかる場面も最高です。

 

 巨大化した「長老ファービー」が暴れ回る姿は、もはや怪獣映画そのものでした。

泥臭いアナログ技と、不器用な父親の愛

 本作の魅力は、最新AI軍団との戦いを「アナログな知恵」で切り抜ける点にもあります。

 

 道路柄の布を車に被せて自動運転システムを欺く即席ステルス迷彩。

 

 パグ犬モンチを見せて「犬なのかパンなのか」をAIに判定させ、処理落ちさせる作戦。

 

 どれも高度なハッキング技術ではなく、AIの融通の利かなさを逆手に取る泥臭い方法ばかりです。

 

 その発想がいちいち面白い。

 

 そして終盤、テクノロジーに疎いリックが必死にYouTubeへアクセスしようとする場面も印象的でした。

 

 URLを検索窓に打ち込んでしまうような「デジタル音痴あるある」に笑わされる一方で、娘を助けるために苦手なことへ挑戦する姿には胸を打たれます。

 

 そこには父親としての不器用な愛情が確かにありました。

ホームビデオが明かす真実

 物語の感情的なクライマックスは、親子がお互いの視点で撮影されたホームビデオを見る場面です。

 

 ケイティは、自分の夢を支えるために父が山小屋建築という夢を諦めていたことを知ります。

 

 一方リックは、カメラ越しに映る娘の創造性や感受性、そして家族への愛情を初めて理解します。

 

 直接言葉を交わすのではなく、「映像」という表現を通じて相手を理解するという構成が実に美しい。

 

 映画好きのケイティを主人公に据えた作品だからこそ成立する、見事なドラマでした。

 

 その後のクライマックスでは、息子を脅かされた母リンダが突如として覚醒し、『トロン』風のロボット軍団をなぎ倒していく大暴れも見せてくれます。

 

 感動と爆笑が絶妙なバランスで共存しているのも、本作ならではの魅力でしょう。

AI映画でありながら「人間」を描いた物語

 最終的にPalは物理的なスマートフォンごと破壊され、水没によって機能停止します。

 

 この結末には、欧米SFでしばしば見られる「人間が生み出した怪物を最終的に破壊する」というモチーフを感じました。

 

 いわゆる『フランケンシュタイン』以来続く伝統的な発想ですが、本作の場合は単純な勧善懲悪では終わりません。

 

 直後には生き残ったロボットが「死ぬとはどういうことなのか」と問いかける場面があり、機械にもまた意識や感情が芽生えつつあることを示唆します。

ja.wikipedia.org

子ども向けアニメでありながら、一瞬ゾッとするような余韻を残す終わり方でした。

総評

 『ターミネーター』がAIを「人類を滅ぼす脅威」として描いたのに対し、本作はAIを「家族の問題を映し出す鏡」として描いています。

 

 AI反乱映画のフォーマットを借りながら、本当に描きたかったのは親と子がお互いを理解するまでの物語だったのでしょう。

 

 各種SF映画への愛に満ちたオマージュ、爆笑必至のギャグ、そして思わず胸が熱くなる親子ドラマ。

 

 ポップな見た目からは想像できないほどテーマは普遍的で、テクノロジーと人間の関係、そして家族のあり方について考えさせられる作品でした。

 

 AI映画としても、家族映画としても、そしてアニメーション映画としても非常に完成度の高い一本。

 

 評判どおりの傑作でした。

 

↓この記事がいいなと思ったら読者になって欲しいです!

【映画レビュー】神罰か、クズ男の身勝手か?『ユリシーズ』(1954)に学ぶ「ゼウスの掟」

 ※この記事はネタバレありです!

 

1954年公開

監督:マリオ・カメリーニ

主演:カーク・ダグラス

 ※本作はパブリックドメインとなっていますが、権利関係を考慮し動画リンクは控えさせていただきます。現在はAmazonプライムビデオ等で視聴可能です。

amzn.to

 

【前提】物語を支配する絶対ルール「ゼウスの掟(ゼニア)」

 

 冒頭、主人公ユリシーズの妻ペネロペ(シルヴァーナ・マンガーノ)は、館に上がり込んだ無礼な男たちの横暴に悩まされています。

 

 彼らはペネロペに強情に求婚し、財産を食い潰している。なぜ追い払えないのか?

 

 そこには、古代ギリシャの絶対的ルール「ゼウスの掟(客人歓待=ゼニア)」が存在するからです。

  • 身分を問わない:物乞いであれ旅人であれ、敬意を持って迎える

  • 神の化身の可能性:訪問者は姿を変えた神かもしれないという恐れ

  • もてなす側の作法:まず食事や酒を振る舞い、満腹になってから素性を尋ねる

  • 客側のマナー:善意を悪用して居座ったり、財産を食い潰してはならない

 この絶対ルールと主人不在が重なった結果、居直った求婚者たちの横暴がまかり通ってしまっているのです。

 

記憶喪失と都合が良すぎる「なろう系」展開

 場面は変わり、とある島に打ち上げられたユリシーズ。彼を介抱する王女ナウシカー(ロッサナ・ポデスタ)は、出会って速攻で彼に一目惚れします。

 

 「現代の『なろう系』でもここまで都合の良い展開はないのでは……」と軽薄さすら感じる場面ですが、ちなみに『風の谷のナウシカ』の元ネタはここから来ています。

 

 ここでも「ゼウスの掟」が機能し、記憶喪失のユリシーズは歓待され、王女との結婚が決まるという絵に描いたようなご都合主義が完成しかけた瞬間——ユリシーズの記憶が戻り、物語は過去の回想へ入ります。

【回想】掟を破るユリシーズと、自業自得の冒険

 回想の中のユリシーズは、ポセイドン像を破壊して神の怒りを買い、サイクロプスの洞窟へ辿り着きます。

 

 ここで彼は「ゼウスの掟」を破り、他人の洞窟を勝手に荒らしてしまう。その報いのようにサイクロプスに追い詰めてられ、仲間を食殺されるハメになります。本作の構造的キーは、間違いなくこの「ゼウスの掟を守ったか/破ったか」にあるのです。

 

 ユリシーズは得意の策でサイクロプスに酒を飲ませて眠らせ、危機を脱します。しかし再び航海に出た一行を、今度はセイレーンの歌声が襲う。

 

 ここで不可解なのは、ユリシーズが「歌声を聞きたいから」という個人の好奇心で自分を船の柱に縛り付けさせる点。好奇心旺盛な男のエゴに付き合わされる仲間からすれば、たまったものではありません。

魔女チルチェの誘惑と「ママー!」的衝動

 魔女チルチェの島では、仲間がブタに変えられてしまいます。

 

 チルチェを演じるのが妻ペネロペと同じシルヴァーナ・マンガーノなのは見事です。怪しい緑のライティングも手伝い、チルチェが「ユリシーズが最も愛し、切望する女性」の幻影を見せているようにも映ります。

 

 しかし、チルチェの館で愛欲の泥沼に身を沈めたユリシーズは、気づけば半年もの時を無駄に浪費

 

 愛想を尽かした仲間が出航し直後に全滅すると、自らの過ちに気づき逃げ出そうとします。不死の約束や死んだ仲間の幻影で追い詰めてくるチルチェ。だが、亡き母親の幻影が現れた途端、一種の「ママー!」的な衝動で攻撃を打破し、ついに故郷へと向かうのです。

真の主人公ペネロペと、容赦なき「神罰」の執行

 その頃、ペネロペは極限まで追い詰められ、ついに求婚者のひとりを受け入れざるを得ない状況に陥っていました。ドラマツルギーとしては、むしろペネロペこそがこの物語の真の主人公に見えてきます。

 

 乞食に変装して帰還したユリシーズはペネロペに策を授け、「12個の斧の穴を弓で射通した者を夫とする」という試練を課す。

 

 誰も弓の弦すら張れない中、乞食姿のユリシーズが弓を引き絞る——。

 

 ここから始まるクライマックスで、ユリシーズは求婚者と堕落した侍女たちを容赦なく皆殺しにします。そう、これこそが「ゼウスの掟」を破り、客としてのマナーを蹂躙し続けた者たちへの徹底的な神罰(天罰)の執行に他なりません。

結び:現代の「炎上案件」男が、神話になる瞬間

 無事にペネロペと再会を果たし物語は幕を閉じる。チルチェからの不死の申し出を拒んだユリシーズであったが、神話という物語になることで結果的に永久の「不死」を獲得したというのは皮肉な話です。

 

 ユリシーズのキャラクター造形は極めて身勝手で自責思考に欠け、現代の観点から見れば到底支持されない「炎上案件」になりかねない男です。

 

 しかし、神々が実在したとされた神話の時代と、1950年代という肉体派ヒーロー映画の時代性——この「2つの時代」が交差したからこその強烈な個性と言えます。

 

 クリストファー・ノーラン監督による『オデュッセイア』の映画化構想においても、この身勝手で人間臭いヒーロー像が現代の基準でどうアップデートされるのか、その予習として非常に興味深い一作でした。

 

↓この記事がいいなと思ったら読者になって欲しいです!

【ネタバレあり】映画『カプトゥーラ -エル・チャポの逮捕-』レビュー:腐敗の暗雲を払う、現場警官たちの「光」

 ※この記事はネタバレありです!

 

2026年配信(Netflix)

邦題は「Caputre(捕まえる、写真に撮るの意)」

監督: チャバ・カルタス

主演: アルフォンソ・ヘレラ、ノエ・エルナンデス

Netflix公式プロモーション画像

share.google

youtu.be

 日本国内でも7年前にニュースになっています。

youtu.be

 メキシコの麻薬王、ホアキン・グスマン(通称エル・チャポ)の逮捕劇を描いた実録サスペンス。本作は、ジャーナリストのエクトル・デ・マウレオン(Héctor de Mauleón)が『El Universal』誌に寄稿した実録ルポルタージュ記事(“Cómo atrapamos al Chapo” および “Veinte minutos a solas con El Chapo”)を原作としている。

ja.wikipedia.org

 

精密に計算された主人公への「負荷」と推進力

 物語の冒頭、主人公の連邦警察官アルトゥーロ・カルモナ(アルフォンソ・ヘレラ)のプロフィールが示される。彼は過去に犯罪者との激しい銃撃戦を経験し、重い不眠症に悩まされている。この「未精算の過去」が彼のトラウマとして根底に横たわる。

 

 さらに家庭内では、妻から3人目の子供を授かったことを知らされる。ここでカルモナが「気を付けていなかったのか?」と漏らす一幕がある。避妊はパートナーへの配慮が基本とされる中で疑問を覚える発言だが、カトリック的価値観が色濃く残るメキシコ社会の現実か、あるいは突然の事態に対する動揺と不器用な責任転嫁の現れなのだろう。

 

 いずれにせよ、この3人目の妊娠によってカルモナには「経済的困窮」という課題が重なる。家計を助けるために夜勤へシフトを変更することで、「慣れていない職場環境への変化」と「夜勤による深刻な睡眠不足」が加わり、主人公は極限まで追い詰められていく。

 

 劇作術として見ても、主人公へ多重の負荷をかけることで物語の推進力を劇的に高める見事なセットアップだ。

 

 そこに組まされるのが、ベテラン警官のエクトル・ロサレス(ノエ・エルナンデス)だ。最初はどこか不穏で頼れるのか分からない雰囲気を醸し出し、相棒への疑惑という緊張感まで付与される。

「Facing El Chapo」――極限の心理戦とバディの法則

 そんな満身創痍のカルモナたちが直面するのが、海兵隊による大規模摘発(2016年1月8日の「ブラック・スワン作戦」)の混乱に乗じて逃走を図る、超大物麻薬王エル・チャポ(エクトル・コツィファキス)との遭遇だ(まさに原題『Facing El Chapo』の示す通りである)。

 

 ここから物語は一気に加速する。追われる側のカルモナにとっては絶望的な「逃走劇」となり、追うエル・チャポの配下たちにとっては「追跡劇」となって交錯する。

 

 中盤以降、身柄を確保したカルモナたちは路上のモーテルに立てこもる。ワンシチュエーション化することでテンポが停滞気味に感じられる部分もあるが、これは実際の報道記録や現場のリアリティラインを重視した結果だろう。あえて物理的な動きを止め、買収の誘惑と報復の恐怖が入り乱れる心理戦へと焦点を絞っている。

 

 警察内部の誰にエル・チャポの息がかかっているか分からない以上、安易に応援を呼ぶこともできない。この孤立無援の状況こそが、メキシコにおける麻薬汚染の深刻さを残酷なまでに浮き彫りにする。

 

 エル・チャポは巨額の金で二人を誘惑するが、彼らは屈しない。カルモナには「目の前で一般人が犠牲になったトラウマ」があり、相棒のロサレスも長年の勤務で「エル・チャポのような人間の残忍さ」を嫌というほど見てきたからだ。

 

 二人の絆を補強する演出も見逃せない。お互いが差し出したコーヒーを飲む描写は、いわゆる「フード理論(食べ物や飲み物を共にする演出で信頼関係を表す手法)」の美しい実践だ。最初は衝突しかけた二人が、「バディの法則」通りに確かな信頼関係を築いていくプロセスには強い説得力がある。

 

 実話をベースに「警察官が金の誘惑を跳ね除けて職務を全うする」構図は、同じくNetflix映画の『Rip』にも通じるテーマ性を持っている。

www.dustnddirt.com

ラストシーンが示す「メキシコの自浄能力」

 応援が駆け付け、エル・チャポの身柄は無事に引き渡される。ここで印象的なのが、海兵隊がエル・チャポを回収しようとする際、警察署長が「自分たちが逮捕したのだから最後まで付き合う」と主張するシーンだ。

 

 単なる管轄争いにも見えるが、これは「メキシコ人が自らの手で巨大な悪を捕まえた」という証であり、腐敗したシステムを自らの手で乗り越えてみせるという社会の自浄能力の提示だと捉えると深く合点がいった。

 

 エンドロール前にはカルモナ、ロサレス、そしてエル・チャポのその後がナレーションで語られ、約90分の物語は静かに幕を閉じる。

 

 メキシコを舞台にした映像作品というと、どうしても「麻薬カルテルと暴力」というテンプレ化された暗い側面にスポットが当たりがちだ。しかし、巨額の賄賂を拒絶し、家族と誇りのために命を懸けたこの二人こそ、ステレオタイプな闇の裏側に確実に存在する「メキシコの光(希望)」そのものだったのではないだろうか。実録物ゆえの脚色上の不自然さは一部あるものの、非常にテンポ良く見応えのあるサスペンス作だった。

 

 エル・チャポことホアキン・グスマンだけど、私は本作で初めて彼の存在を知ったのですが、かなりの有名人らしく、ネットフリックスの映像作品では本作の他に2作品ほどあるのでそちらも紹介してこの記事の終わりとします。

 

 まずはドラマ「エル・チャポ」

share.google

 

 ドキュメンタリー「エル・チャポと出会った日」

share.google

 

↓この記事がいいなと思ったら読者になって欲しいです!

【ネタバレ感想】映画『フォロウィング』解説|ノーラン原点にして完成された叙述トリックの罠

※この記事はネタバレありです!

 

2001年公開(日本)

監督・脚本:クリストファー・ノーラン

主演:ジェレミー・セオボルド

youtu.be

フォロウィング(HDレストア版)

フォロウィング(HDレストア版)

  • ジェレミー・セオボルド
Amazon

 本作を鑑賞した理由は、新作『オデュッセイア』の公開に向けて、クリストファー・ノーラン監督の長編デビュー作を押さえておきたかったからです。

youtu.be

 本作は古典的なフィルムノワールの形式を取っており、「愚かな男がファム・ファタール(運命の女)によって破滅していく」という王道のパターンを踏襲しています。

 

 また、初期ノーラン作品の常連デヴィッド・ジュリアンによる音楽も秀逸で、特に他人の部屋へ侵入するシーンなどでビルの不安を煽るような不穏なテイストは、すでに非常に「ノーラン的」だと感じました。

※ビルの部屋のドアに「バットマン」のマークが貼られているのはその筋ではかなり有名らしく、後に「ダークナイト3部作」を担当することがまるで暗示されているかの様です。

 

 「見る者が見られる者になる逆転構造」「時系列のシャッフル」「記憶や認識の混乱」「犯罪」「男の主人公」といった、現在のノーランを形作る要素はすべてここから始まっています。

 

 特に、髪を切り髭を剃ったビルが登場するシーンでは「新しいキャラクターが出てきたか?」と錯覚させられる見事な叙述トリックになっており、外見の変化だけで時間軸と心理を描く手腕には唸らされました。

 

 一方で、低予算(約6,000ドル)ゆえか、場面転換でいきなり画面が暗転して別のシーンに移るなど、カット割りはお世辞にもスムーズとは言えません。

 

 「もっと上手く繋げられたのでは?」と感じる部分もあり、まだ習作といった段階の粗さも残っています。

 

 ですが、のちの大作群へ繋がるアイデアが凝縮されており、天才監督の原点として非常に見応えのある一作でした。

 

↓この記事がいいなと思ったら読者になって欲しいです!