儀式ってはたから見ると滑稽で、だからこそこの映画がダークコメディとして機能しているのかも。それが強調されるシーンもちゃんとある。なにせある登場人物が失脚したとき、バックでカラスらしき鳥の鳴き声が聞こえますからね。
筋立てとしては、前の教皇がお亡くなりになり、空位となった教皇の座を巡って選挙が行われる。ただそれだけの話なんだけど、ちゃんと面白かったし選挙(コンクラーベ)がよくわからなくても楽しめて、エンタメ映画してました。
人間の最も暗い欲望の「権力欲」が絡んでいるので、ある者は教皇になりたいという欲望をむき出しにしていたりして、まあ結局ただの人間が密室でドロドロとやっているだけの話だったりはする。伏線も無しに「実はあの人、こんなスキャンダルがあるんですよ」みたいなのは、話を転がしたいからそうしているんでしょうけど、ちょっと上手くないかなと。
で、そんななか、誰が教皇に「選ばれるのか」は二転三転し、というかし過ぎて最終的にある人物に白羽の矢が立つ。前教皇の遺志が叶ったという形でよかったよかったみたいに終わるんだかどうだかわからない気がしないでもない。
何故かというと、リベラルによって現実世界では貧富の差がむしろ拡大したので、なんか若干ファンタジーっぽく見えてしまっている。だからあの終わり方が必ずしも良きものには私には見えない。こういう話の終わり方って、いちばん教皇になりたくない人が、結局は教皇になってしまうという「使命(コーリング)」で完結するのがオーソドックスなかたちだと思うので、ここらへん違うかなと。