※この記事はネタバレありです!
監督、脚本:オリベル・ラシェ
主演:セルジ・ロペス、ブルーノ・ヌニェス・アルホナ

- 劇場でこそ本領を発揮する内容
- 物語の目的自体にはたいして意味が無い
- 導入部で示される「周辺化された者たち」
- レイブミュージックの精神を体現する関係性
- 加速し続ける物語の推進力と浮かび上がるテーマ
- 最後に残ったものは「身体」
- ついに殻を破るルイス
- テーマは「死を体感させること」
劇場でこそ本領を発揮する内容
「SIRĀT」は、まず「劇場で体験する映画」だと思う。
この作品は、単にストーリーを追うだけでは本質に辿り着けない。むしろ観客は、砂漠を進む登場人物たちと同じように、轟音、振動、不穏な気配に身体ごと晒されることで、初めて映画の核心へと近づいていく。
物語の目的自体にはたいして意味が無い
物語そのものは非常にシンプルだ。ルイス(セルジ・ロペス)と息子エステバン(ブルーノ・ヌニェス・アルホナ)が、行方不明になった娘を探してモロッコのレイブ会場を巡るというもの。
しかし本作が本当に描いているのは、「娘を探す話」ではなく、極限状態に追い込まれた人間たちが、何を失い、最後に何を残すのかという問題なのだと思う。
導入部で示される「周辺化された者たち」
ルイス親子は、モロッコの砂漠で開催されている巨大レイブ会場に現れる。彼らの服装や佇まいは周囲から完全に浮いており、場違い感が凄まじい。
そこで彼らは、ステフ、ジェイド、トニン、ビギ、ジョシュらレイバー集団と出会い、次のレイブ会場へ向かう旅に同行することになる。
彼らはタトゥーだらけで、身体欠損のある者もいる。定住や労働、家族制度といった「正常な社会」のレールから零れ落ちた者たちとして描かれているように見える。
つまり本作は、最初から「周辺化された者たち」の映画なのだ。
そして彼らが舗装道路を外れ、荒涼とした砂漠へと車を走らせる。 文字通り、「道を外れる」瞬間である。そこから、映画タイトル「SIRĀT」が表示される。
※SIRĀT(シラート)とは、イスラムの教えにおいて「地獄の頭上に架けられた、髪の毛よりも細く鋭い一本の橋」を意味する言葉だ。正しい者だけが渡りきり、罪人は奈落へと落ちる。
この演出によって、本作が社会の中心ではなく、その外側に追いやられた人々を描く作品であることが、極めて明確に提示される。
レイブミュージックの精神を体現する関係性
ただ興味深いのは、当初まったく交わらなかったルイス親子とレイバー集団が、旅を続けるうちに徐々に共同体のようになっていく点だ。
食事のシーン――いわゆる「フード理論」的な演出――によって、彼らが少しずつ関係を築いていく様子が示される。決して清潔でも上品でもないが、そこには確かな親密さがある。
加速し続ける物語の推進力と浮かび上がるテーマ
一方で、物語が進むにつれて、どうやら世界情勢そのものが危機的状況に陥っていることも示唆され始める。
第三次世界大戦を思わせる不穏なニュース。灼熱の砂漠。崖沿いの危険な道。
そして中盤、ルイスが息子を守ろうとした行為が、逆に取り返しのつかない悲劇を引き起こしてしまう。
ここはぜひ劇場で体感してほしい場面だ。
映像というより、「音」が観客の身体を直接殴ってくる。
この瞬間から映画はさらに苛烈になる。
ルイスは慟哭し、集団はさらに極限へ追い込まれていく。そして砂漠という夾雑物のない空間だからこそ、監督のテーマがむき出しの形で浮かび上がってくる。
最後に残ったものは「身体」
これまでの展開で追い詰められてなお、彼らは砂漠で巨大スピーカーを設置し、レイブを始める。
正直、見ている側は「なぜこんな状況で踊るのか」と戸惑う。
しかしこの場面こそ、本作の核心なのだと思う。
彼らは、家も、社会的立場も、安全も、未来も失っていく。
それでも最後まで奪われなかったものがある。
それが「身体」だ。
踊るという行為は、彼らに残された最後の自己表現であり、生存確認なのだと思う。
ヒップホップ文化が、荒廃した都市空間の中で「最後に残った身体」から生まれたように、本作のレイブもまた、極限状態における身体性の発露として描かれているように感じた。
ここでルイスも踊りに参加する(娘の立場になりきる)ことでついに娘を理解する。
だが終盤、彼らはさらに徹底的に追い詰められる。
ついに殻を破るルイス
ここも劇場で思わず身体が跳ねるほど強烈な場面だった。持ち物も、共同体も、あらゆるものが剥奪され、存在そのものがどんどん純化されていく。
そんな中で、古い価値観を持つ人間だったルイスが、ある意味で「殻を破る」。
彼自身のやり方で“レイブ”に参加することで、危機を突破するのだ。
テーマは「死を体感させること」
そして最後まで、娘探しという目的は達成されない。何故なら娘を理解した時点で目的は達成されているから。
だからこれでいいのだと思う。
この映画の目的は「失踪した娘を見つけること」ではなく、監督自身が語っているように、「死(忘我の境地)を体感させること」にあるからだ。
- 世界崩壊の気配
- 極限の旅路
- 突如訪れる暴力
そして観客の身体を揺さぶる圧倒的な音響。
「SIRĀT」は、それらすべてを通して、「死」を情報ではなく“体験”として観客に叩き込んでくる映画だった。
公式サイトにはサントラのリンクも貼っているのがありがたい。
↓この記事がいいなと思ったら読者になって欲しいです!