※この記事はネタバレありです!
2026年公開
監督:アントワーン・フークア
脚本:ジョン・ローガン
主演:ジャファー・ジャクソン
マイケル・ジャクソンという、超がつくほどの偉大なアーティストの伝記映画です。

私は鑑賞後、非常に複雑な気持ちで劇場を後にしました。
まず最初に海外の有名な映画レビューサイト「ロッテントマト」の評価を掲載します。
- 批評家と観客評価の乖離
- 物語の軸は2つ
- ダディ・イシュー
- 偏りのあるマイケルの描写
- マイケルの「甥」に注文をつけられないもどかしさ
- これは「作品」ではなくて「巨大なプロジェクト}
- 作品の内容と矛盾する、制作者たちに課せられた鎖
- ジャファー・ジャクソンの、マイケルが憑依したかの様な圧巻の演技
- 観客の要求には応えられてはいる
- ラストの曲が意味する皮肉
批評家と観客評価の乖離
批評家評価がなんと38%であるのに対し、ポップコーンメーター(観客評価)は97%と、評価が完全に真っ二つに分かれているのだ。
私の立場としては、両者の意見がどちらも痛いほど分かってしまう。何故これほど評価が分かれてしまったのか、その理由を記していきたい。
物語の軸は2つ
物語の大きな軸は2つある。マイケルのミュージシャンとしての成長物語と、彼の父親であり、当初プロモーターを務めていたジョセフ・ジャクソン(コールマン・ドミンゴ)との確執――いわゆる「ダディ・イシュー」だ。
今作では、マイケルがジョセフという絶対的な「家父長」からの支配を脱するまでが語られ、実は彼の生涯のすべては描かれていない。まずこの点が(批評家視点における)問題の核心なのだろう。
ダディ・イシュー
この「父と息子の関係性」というのは古くから世界中で描かれてきたテーマであり、アメリカなら『スター・ウォーズ』、日本なら『新世紀エヴァンゲリオン』、そして今作の構図に一番近いのは『巨人の星』の星飛雄馬と星一徹の関係性だ。
偏りのあるマイケルの描写
それと同時に、劇中のマイケルがあまりにも純粋無垢に描き過ぎていて、一人の人間が持つ二面性や複雑なダークサイドが抜け落ちている。ここもやはり歪みに感じる。同年代の友達が一人もおらず、人間以外の動物と交流し、重病を抱えている少年たちに寄り添う姿ばかりが強調され、父親以外の大人との人間関係が(母親を除いて)ほとんど描かれない。
これほど偏った描写になってしまったのは、この映画が世に出るための絶対条件が、マイケルの遺産管理団体(ジャクソン・エステート)による全面的な協力と権利(楽曲使用権など)の許可だったからだ。
マイケルの「甥」に注文をつけられないもどかしさ
加えて、マイケルを演じているのが甥のジャファー・ジャクソンである点も大きい。彼のパフォーマンス自体はパーフェクトと言ってよい出来だが、マイケルの実の親族である彼に対して、「マイケルの闇や裏の部分を演じろ」と要求することは、心理的にも不可能だったはずだ。
これは「作品」ではなくて「巨大なプロジェクト}
さらに、配給・製作にはソニー・ピクチャーズが深く関わっている。ソニーグループにとって「マイケル・ジャクソン」というコンテンツは、今なお年間で巨額の利益を生み出し続ける最重要の音楽資産(IP)だ。
つまり本作は、監督や脚本家の内的必然性によって制作された「表現」などではなく、絶対に失敗することも、ブランドを毀損することも許されない「巨大プロジェクト」としての側面が決定的に強い。
作品の内容と矛盾する、制作者たちに課せられた鎖
これほど多くの制約に縛られているからこそ、作中で「抑圧から才能を解き放って終わる」マイケルの物語とは裏腹に、制作陣自身が商業主義という「鎖」でガチガチに縛り付けられ、まるでマイケルが飼っていたチンパンジーのバブルスのように飼いならされてしまっている。
結果としての、批評家の酷評なのだ。これでは「ソニー・ピクチャーズ=ジョセフ(支配する父)」で、「監督や脚本家=マイケル(縛られる息子)」みたいな構図ではないか。
一方で、97%という驚異的な観客評価との乖離について。これは裏を返せば「楽しければいいじゃん、ジャファーのマイケル最高!」という熱狂の表れであり、そこには冷静な批判的思考(リベラルアーツ)が存在しない。ただ都合よく美化された神話を消費しているだけ、とも言える。
ジャファー・ジャクソンの、マイケルが憑依したかの様な圧巻の演技
しかし、本作を単なる「美化された伝記映画」と切り捨ててしまうのもフェアではない。
なぜなら、ジャファー・ジャクソンの演技と音楽シーンには、批評的な視点を一旦脇へ置かせてしまうほどの圧倒的な力があったからだ。
ジャファーは単なるモノマネに終始していない。声の抑揚、身体の重心移動、踊る前のわずかな間の取り方に至るまで、観客が頭の中で記憶している「マイケル・ジャクソン像」を極めて高い精度で再現している。
それは演技というより、ある種の降霊術に近い。スクリーンの向こうにいるのはジャファーであるはずなのに、ふとした瞬間に「マイケル本人ではないか」と錯覚してしまう。
そしてライブシーンが始まると、その効果はさらに強まる。
「Billie Jean」や「Beat It」といった名曲が流れ、あのダンスとパフォーマンスが再現されるたびに、理屈ではなく感情が反応してしまう。私自身も批評家として映画を見ようとしていたはずなのに、何度も血がアガった。
考えてみれば、それこそが本作が観客から97%という驚異的な支持を得た理由なのだろう。
観客の要求には応えられてはいる
多くの観客は、この映画に「真実」や「検証」を求めているのではない。彼らが求めているのは、自分が長年愛してきたマイケル・ジャクソンという存在が間違っていなかったという確認、つまり感情的なヴァリデーション(承認)なのである。
この映画は観客に対して、「あなたが愛したマイケルはやはり素晴らしかった」と何度も語りかける。その意味では、本作は優れた伝記映画というより、巨大な追悼式であり、ファンに向けた祝祭なのだろう。
ラストの曲が意味する皮肉
しかし、映画のラストを飾る曲が「Bad(俺が最高にタフでイケてるボスだ)」であることは、結果的に猛烈な皮肉として響く。ステージの上で誰よりも「Bad」だったマイケルを免罪符のように祭り上げるこの映画自体が、資本と遺族の手によって徹底的に「クリーン(清廉潔白)」に消毒された結果産まれたものなのだから。