ちりあくたのつぶやき

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映画『マスターズ・オブ・ユニバース』感想:80年代の野性味が消えた理由と構造的欠陥を徹底批評

 ※この記事はネタバレを含みます!
 
公開:2026年
監督:トラヴィス・ナイト(『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』)
主演:ニコラス・ガリツィン(『ひつじ探偵団』)

 マテル社が誇る伝説的玩具『ヒーマン』をベースにした映像作品。1987年のドルフ・ラングレン主演版に続く待望の再実写化であり、ネット上では『HEYYEYAAEYAAAEYAEYAA』などのミームでもおなじみのIPです。
 
 劇場公開からわずか1ヶ月半ほどでAmazon Prime Videoへ爆速配信されたことも話題になりましたが、いざ観てみると「劇場公開そのものが巨大なプロモーションであり、配信とグッズで回収する」という現代的ビジネスモデルの割り切り以上に、作品そのものが抱える“ある葛藤”が浮き彫りになっていました。
 
 結論から言うと、本作は「80年代の筋肉バカアクションを現代に蘇らせることの難しさ」を証明してしまった一作です。作り手にしろ演者にしろ、所々で「照れ」と「現代的な配慮」が見え隠れしてしまっているのです。
 
 とはいえ、ビジュアルの鮮やかさやニコラス・ガリツィンをはじめとするキャストの演技、全体のテンポの良さはしっかりしており、決して退屈な映画ではありません。その中で感じた“物足りなさ”を、以下に整理していきます。
 
 なお、本作はAmazonプライムビデオで配信されているので、これを機に会員になるとお得です!

「イタイ奴」からの覚醒……しかし拭えない違和感

 
 導入部、主人公アダム・グレン(ニコラス・ガリツィン)のプロフィール紹介から物語は始まります。

 彼は惑星エターニアの王子でしたが、悪役スケルターとその配下の襲撃により王国は壊滅。アダムだけが「パワー・ソード」とともに異世界である地球へ流されるも、その途中で剣と離れ離れになってしまいます。
 
 15年後、地球で暮らす彼はマッチングアプリで出会った女性に自分の生い立ちを包み隠さず話し、「王子なんだ」と熱弁する完全に“イタイ奴”と化していました。
 
 しかし、彼の妄想と思われた生い立ちは本物。やがて探し求めていた剣を手に入れ、エターニアからやってきた敵や、姉のような存在であるティーラ(カミラ・メンデス)と合流し、無事に故郷へと帰還します(余談ですが、巨大な石像から剣を抜き取るシーンを見ていて、自分にはどこか微妙に居心地の悪いニュアンスを感じてしまいました。これは完全に個人的な印象です。)

ツッコミどころとノイズの嵐

 
 戻ったエターニアはスケルターの支配下にあり、抵抗組織はあるもののすっかり落ちぶれています。

 ここからの展開がどうにも不自然です。アダムは正当な王子であり、伝説の剣も取り戻しているのだから、王国の民は即座に彼に従うはずではないでしょうか?

 特に、戦いに敗れて腐っているダンカン / マン・アット・アームズ(イドリス・エルバ)の横柄な態度は、王族に対するそれとは思えません。
 
 イドリス・エルバの存在感自体は圧倒的で、演技は見応えがあるだけに、キャラクターの立ち位置が惜しく感じました。案の定、スケルター軍団の襲撃を受けるのですが、ここでも疑問が残ります。

 アダムは地球にいた頃にしっかり筋トレをしており(劇中には前作主演ドルフ・ラングレンのカメオ描写も!)、自分が王子であるという確信もあったはずです。ならば、なぜ戦闘技を磨いていなかったのでしょうか?
 
 もちろん、剣を掲げて特定の文言を唱えることで覚醒(日本のアニメでいう変身シーン)するクライマックスのための「溜め」が必要なのは分かります。しかし、それにしても不自然すぎます。
 
 さらに個人的な最大のノイズは、「彼がやたらに剣を落とす」こと。

 アダムが持っているのは「刀」ではなく「剣」だから扱いが雑なのかもしれませんが、それにしても落としすぎです。そこは「手をかざせば手元に戻ってくる」くらいのファンタジー演出があっても良かったのではないでしょうか。

悪役スケルターの「自己開示」と削がれた野性味

 
 悪役側の描き方にも、現代的な「正しさ」のノイズが混入しています。
スケルター様は見た目こそ完璧な悪役然としているのに、なんと側近の女性キャラであるイーヴィル・リン(アリソン・ブリー)に対して唐突に「自己開示」を始めます。

 こういう作品の悪役には、もっと純粋かつ絶対的な悪として振る舞ってほしかった——これは完全に自分の好みの問題ですが、単純明快な豪快ヒーローものとして観たときに、余計な説明が物語のパワーを減衰させてしまった印象が拭えません。
 
 スケルターの牙城に赴いたアダムが、地球での経験からか話し合いで解決を望む(なんだかなー)。

 アダムの父親であるランドー王(ジェームズ・ピュアフォイ)が生きていたと思ったら、アダムの過失であっけなく死んでしまう(首をかしげる展開)。

 全員まとめて牢屋にぶち込まれるが(散らせよ!)、アダムの地球での労働経験と15年分の知識で脱獄し反転攻勢へ。
そして最終決戦でも、筋肉のぶつかり合いは抑制されます。

 アダムの剣が破壊されると、なんとスケルター様はアダムに対して「精神攻撃」を仕掛けてくるのです。ここでのスケルター様のコスプレ七変化は「可愛い」とすら言える出来栄えで、「なんならスケルター様を主人公にした方がよかったのでは?」と思わされるほどでした。

本当にこんな感じで出て来る!
 最終的にアダムは己の内なる力に目覚めますが、ここでもまた「まずは話し合おう」とし、決裂したからやむなく力を振るう……という手順を踏みます。いちいちパワーの発動に「理由と制限」をかけられる様は、まるでレーティング(年齢制限)の制約に牙を抜かれた映画そのものを象徴しているかのようでした。

まとめ:続編はコメディにしてほしい!

 
 無事に事態は収拾され、アダムは自身の真の名前「ヒーマン(男らしさの象徴)」=尊厳を取り戻します。しかし、映画全体のカタルシスとしては「弱い」と言わざるを得ませんでした。全体的にウェルメイドで、ビジュアルの華やかさやキャストの熱演、アクションのキレの良さは確かにあるのに、80年代特有の「野性味」は確実に奪われています。

 これはおそらく、親会社であるマテル社が『バービー』の映画化で成功を収めたこともあり、企業として「正しさ」や「配慮」にこだわりすぎた結果なのかもしれません。
とはいえ、映画の救いはスケルター様の圧倒的な愛らしさでした。

 ラストでは続編を匂わせる演出がありましたが、もし次があるなら、いっそスケルター様を主人公にした「ご町内征服コメディ」に振り切ってくれた方が、ずっと楽しい映画になるのではないでしょうか。
 
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