※この記事はネタバレを含みます!
公開年:1927年(ドイツ)
監督:フリッツ・ラング
出演:ブリギッテ・ヘルム、グスタフ・フレーリッヒ

映画学校で教える「映画の教科書」として、必ずと言っていいほど名前が挙がる『メトロポリス』。
私の映画体験はそうした「正統派ルート」を歩んでこなかったため、恥ずかしながら今回が完全な初見でした。
しかし、実際に観て驚かされたのは、これが単なる「特撮の祖」や「SFの古文書」にとどまらないこと。現代の私たちが直面している問題をグサグサと刺してくる怪作だったのです。
- 1. 100年前に予見された「品川駅の社畜回廊」
- 2. 「二人のマリア」——聖女と大淫婦バビロン
- 3. フレーダーの役割——神話的「父殺し」とクィアな身体性
- 4. 結末に漂う「時代ならではのオプティミズム」
- おわりに
1. 100年前に予見された「品川駅の社畜回廊」
本作の最も先進的な部分は、高度に発達した資本主義がもたらす「極端な格差社会」の描写です。
冒頭、無機質な地下へと吸い込まれていく労働者たち。 下を向き、死んだような目で足並みを揃えて歩く鬱々とした通勤風景を見た瞬間、私の脳裏に浮かんだのは品川駅東口の通称「社畜回廊」でした。
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1927年のドイツで描かれたディストピア
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21世紀の日本で繰り広げられる日常
この2つが、完全に地続きになっている怖さ。
機械文明が生み出す「人間疎外」を、チャップリンが『モダン・タイムス』(1936)で風刺する9年も前に、フリッツ・ラングはこれほどまでに不気味な映像美として完成させていたのです。
2. 「二人のマリア」——聖女と大淫婦バビロン
物語の軸となるのは、対極に位置する「二人のマリア」の存在です。
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【聖女マリア】
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地下のカタコンベで虐げられた人々を導く「聖母」のような救世主。
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【偽マリア(アンドロイド)】
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歓楽街「ヨシワラ」で狂乱のダンスを踊り、男たちの理性を狂わせて都市を崩壊へ導く「ファム・ファタール」。
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中盤過ぎのダンスシーンで、偽マリアは「7つの頭を持つ獣」から姿を現します。これは新約聖書『ヨハネの黙示録』に登場する「大淫婦バビロン」そのもの。
富裕層の「空中庭園」、巨大な「新バベルの塔」、そして淫婦の誘惑による都市の崩壊——。本作はSFの皮をかぶった「旧約・新約聖書の現代的再解釈」でもあるのです。
3. フレーダーの役割——神話的「父殺し」とクィアな身体性
支配者の息子・フレーダーは、地上(天界)から地下(地獄)へと降り立ち、人々の苦痛を引き受ける「キリスト的救世主」です。同時に、絶対的な支配者である父親(旧秩序)を打ち破る神話的な「父超え」の英雄でもあります。
ここで興味深いのが、「フレーダーに漂う若干のクィア(Queer)性」です。
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労働者11811号と衣服を脱ぎ合って入れ替わるシーン
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父親の秘書ジョザファットと身を寄せ合い、抱き合う過剰な親密さ
冷酷で過剰な「父性的マッチョイズム」を体現する父親に対し、感情的で肉体的に脆弱なフレーダー。彼はどこか父性社会の規範から逸脱しています。
1920年代ワイマール文化が持っていたクィア・サブカルチャーの影が、彼の身体性に滑り込んでいるようにも読めて非常に面白い部分でした。
4. 結末に漂う「時代ならではのオプティミズム」
劇中で繰り返される象徴的なフレーズがあります。
「頭脳(資本家)と手(労働者)を媒介するものは、心(仲裁者)でなければならない」
ラスト、支配者側と労働者側が己の至らなさを反省し、手に手を取り合って和解を迎えます。
このハッピーエンドには、第一次世界大戦直後であり、まだ共産主義への過剰なアレルギーが形成されきっていない時代のオプティミズム(楽観主義)を感じさせます。
(後にこの「生ぬるい和解」は右派・左派双方から批判され、ナチスに利用される皮肉な運命を辿るのですが、それも含めて歴史のあだ花のような魅力があります。)
おわりに
「教科書的な名作だから」という構えた気持ちで見始めましたが、蓋を開けてみれば現代の都市論、聖書解釈、ジェンダー的視点まで、語りどころが山のように詰まった大傑作でした。
「100年前の古臭い映画でしょ?」と敬遠している人にこそ、この品川駅の既視感と、クィアな救世主の暴走を確かめてほしいと思います。
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