※この記事は映画『台風クラブ』のネタバレを含みます。
1985年公開
監督:相米慎二
主演:三上祐一

『台風クラブ』は、一般的な青春映画のように「主人公が困難を乗り越えて成長する」という明快なストーリーを持った作品ではない。
思春期の衝動、不安、性、そして言葉にならない閉塞感を、台風という自然現象と重ね合わせながら描く極めて抽象的な映画である。
近年ではNetflixで配信されたこともあり、初めて本作に触れた人も少なくないだろう。鑑賞後には「結局何を描きたかった映画なのか」と戸惑う人も多いと思う。
私は本作を、「1985年」という時代そのものを映し出した作品として見ると非常に腑に落ちた。
挫折した大人(梅宮)と、社会へ組み込まれていく少年(恭一)
物語は台風が接近する数日前から始まる。
主人公は野球部に所属する中学3年生・恭一(三上祐一)。東京の私立高校への進学を目指す真面目な優等生であり、社会が用意したレールを素直に歩もうとしている少年だ。
対照的なのが教師・梅宮(三浦友和)である。
女性関係のトラブルを授業中に持ち込まれ、生徒の前で醜態をさらす姿は、とても理想的な教師とは言えない。
劇中で梅宮は30代前半と語られる。この年代設定を踏まえると、彼は学生運動終焉後に大人となった世代に属すると考えることもできる。理想を掲げる時代が終わった後の、どこか醒めた空気をまとっている人物として描かれているようにも見える。
恋人の親族として登場する刺青を背負った男の存在も含め、梅宮の周囲には社会の表舞台から少し外れた人々が配置されている。
一方の恭一は、その社会へ自ら進んで入ろうとしている。
この二人の対比が、本作の大きな軸になっている。
また1980年代の作品らしく、現在であればインティマシー・コーディネーターの配置が検討されるような性的描写も少なくない。
中でも清水健(紅林茂)は、他者とのコミュニケーションが極端に苦手で、自分の感情をうまく制御できない人物として描かれている。想いを寄せる少女を傷つけたり、性的暴行を試みたりする場面は、現在のコンプライアンス基準では映像化が難しいと思われる描写である。
もっとも、それらは1980年代の青春映画が持っていた、生々しい性衝動や未成熟さを包み隠さず描こうとする作風の一端でもあった。
台風が生み出した「アジール(聖域)」
土曜日、台風によって学校は外界から切り離される。
恭一の恋人・高見理恵(工藤夕貴)は家出を決行し、一方で大町美智子(大西結花)や山田明(松永敏行)たちは校舎へ取り残される。
彼らは教室や体育館、校庭を自由に駆け回り、服を脱ぎ捨て、踊り続ける。
この学校は、一時的な**アジール(聖域)**へと変貌する。
家庭でも学校でもない、社会のルールが一時的に停止した空間。
台風という非日常が、生徒たちに束の間の自由を与えたのである。
そして、それまで社会へ最も順応しようとしていた恭一も、その輪へ加わる。
彼は初めて「社会の外側」に立つ感覚を経験する。
この場面は単なる若者の暴走ではなく、思春期特有の衝動や性的エネルギーを、自然の猛威と重ね合わせて映像化したシーンなのだろう。
恭一の死と『犬神家の一族』へのオマージュ
台風が去った後、恭一は命を絶つ。
浸水した校庭から脚だけが突き出た姿は、1976年公開の『犬神家の一族』を連想させる、有名なビジュアルへのオマージュと考えられる。
その直前、恭一は梅宮へ電話をかける。
一方の梅宮は、台風の最中にもかかわらずカラオケに興じている。
そこで恭一は「あんたみたいにはならない」と告げる。
梅宮は社会に適応した結果、理想も情熱も失った大人として描かれている。
恭一はそんな未来を拒絶し、自ら死を選んだ——私はそのように受け取った。
もっとも、このラストについては解釈が分かれる。
相米慎二監督自身は脚本通りに恭一は死亡していると語っている一方、鑑賞者の中には生存説を支持する人も少なくない。
この曖昧さもまた、本作の余韻を生み出している。
なぜ『台風クラブ』はここまで抽象的なのか
本作の独特な抽象性は、1985年という時代背景を考えると興味深い。
1980年代半ばの日本は、学生運動の熱狂が完全に過去のものとなり、社会全体がイデオロギーよりも消費へと関心を移し始めた時代だった。
オープニングで流れるBARBEE BOYSの『暗闇でDANCE』が醸し出す退廃的な空気も、そうした時代感覚と響き合っているように感じられる。
そして本作が公開された1985年にはプラザ合意が結ばれ、日本はその後、急速にバブル経済へ向かっていく。
もちろん『台風クラブ』がプラザ合意そのものを描いた作品ではない。
しかし、社会全体が閉塞感から消費社会へと軸足を移し始める、その境界線に立っていた時代の空気を、本作は偶然とは思えないほど鮮やかに封じ込めているように思える。
ラストでは、一度社会の外へ踏み出した理恵と明が、それでも再び学校という日常へ戻っていく。
一方、恭一だけは戻れなかった。
思春期という人生の境界線と、1985年という時代の境界線。
『台風クラブ』は、その二つの「境界」を重ね合わせることで、青春映画という枠を超えた普遍的な作品になったのではないだろうか。
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