※この記事は映画『グレート・ハック: SNS史上最悪のスキャンダル』のネタバレを含みます。
今日は終戦記念日なので、戦争や戦後を直接扱った映画を記事にしようと思っていました。
しかし、過去の記事ですでに『火垂るの墓』『キャタピラー』『ジョニーは戦場へ行った』『ペリリュー 楽園のゲルニカ』「日本のいちばん長い日」など、戦争映画の名作をいくつか紹介しています。
そこで今回は少し方向を変えてみることにしました。
戦争そのものではなく、私たちが「平和で安定した社会」だと思っていた時代の前提が、少しずつ崩れていく過程を描いた映画です。
『ドント・ルック・アップ』や『帰って来たヒトラー』も候補に浮かびましたが、今回はもっと今日的な作品を選びました。
Netflixのドキュメンタリー映画、
『グレート・ハック: SNS史上最悪のスキャンダル』
です。
監督:カリム・アーメル、ジェヘイン・ヌージャイム
2019年製作/114分/アメリカ

2019年に公開された作品ですが、2026年の現在から見ると、単なる過去のスキャンダルを記録した映画には見えません。
むしろ、
「2019年の時点で見えていた未来が、現実になりつつある」
ように感じられる。
『グレート・ハック』を観て、「SNSによって世論が操作されるなんて恐ろしい」と思うだけなら簡単です。
しかし、もっと怖いのは、その仕組みが特別な悪人によって作られたものではなかったこと。
そして現在では、かつて「裏側」で行われていた政治とテクノロジーの結びつきが、以前よりも堂々と表舞台に現れているように見えることです。
- 『グレート・ハック』とは何を描いた映画なのか
- 1. 途上国を「実験場」にする構造
- 2. 犯人は「悪魔」ではない。「資本主義の最適化」だ
- 3. 2019年には「裏側」だったものが、2026年には「表側」に出てきた
- 4. 私たちは「GoogleやSNSを使わない」という選択ができるのか
- 5. 私たちに残された「冷めた視線」
- 『グレート・ハック』は「過去の事件」を描いた映画ではない
『グレート・ハック』とは何を描いた映画なのか
『グレート・ハック』が扱うのは、イギリスのデータ分析会社ケンブリッジ・アナリティカ(CA)をめぐる一連の問題です。
Facebookから大量に取得された個人データが、政治的なターゲティングに利用されたとされる問題を軸に、2016年のアメリカ大統領選挙やイギリスのEU離脱、いわゆるBrexitとの関係を追っていきます。
映画の中で特に印象に残るのは、「人間の心理をデータから推測し、政治的メッセージを個人ごとに最適化する」という発想です。
昔の選挙運動なら、
「この地域にはこの政策を訴える」
という程度だったでしょう。
しかしSNSとビッグデータの時代になると、
「この人には、この言葉を、このタイミングで見せる」
というところまで細分化できる。
ここで政治は、従来の「大衆に向けた演説」から、個人の心理を狙い撃ちするマーケティングへと近づいていきます。
映画を観ていると、「これは政治なのか、それとも広告なのか?」
という疑問が湧いてきます。
1. 途上国を「実験場」にする構造
『グレート・ハック』の中でも特に興味深いのが、CAがアメリカ大統領選挙やBrexitのような大きな政治イベントに関わる以前に、トリニダード・トバゴなどで政治的なデータ分析やキャンペーンを行っていたという話です。
トリニダード・トバゴには、インド系とアフリカ系という大きな民族的対立があります。
そこでCAは、若者の反抗心を利用した「Do Not Vote(投票に行くな)」というキャンペーンを展開したと映画では描かれます。
つまり、単純に「この政党に投票してください」と呼びかけるのではない。
「投票なんてダサい」
という空気を作ることで、特定の層の投票行動そのものを変えようとする。
ここが恐ろしい。
民主主義では、選挙権を持っている人間が投票することが大前提です。
ところが、その「投票する」という行動そのものを、データとマーケティングによって操作しようとする。
これは従来型のプロパガンダとは少し違います。
相手に自分の主張を信じさせるのではなく、
「相手が自分の意思で行動していると思ったまま、その行動を誘導する」
からです。
ここには、嫌な意味での「実験場」という発想があります。
もちろん、核実験とSNSによる政治工作を同列に扱うことはできません。
ただ、
-
本格的な投入に先立って効果を確かめる
-
社会的・政治的コストを他者に負わせる
-
現地社会への影響よりも、実験や成果を優先する
という構造には、ある種の類似を感じてしまいます。
技術が進歩しても、「誰にコストを負わせるのか」という問題は消えません。
むしろ、データとアルゴリズムによって見えにくくなっているのではないでしょうか。
2. 犯人は「悪魔」ではない。「資本主義の最適化」だ
では、ケンブリッジ・アナリティカや、映画の中で重要な人物として登場するブリタニー・カイザーは、単純な「悪人」だったのでしょうか。
私は、そこがこの映画の面白いところだと思います。
本質は「悪人がいた」という話ではありません。
むしろ、
それぞれの人間が自分の仕事を合理的に遂行した結果、社会全体に深刻な問題を引き起こしてしまう。
という構造が見えてきます。
データサイエンティストはデータを分析する。
マーケティング担当者は広告効果を高める。
政治家は選挙に勝とうとする。
企業は利益を最大化する。
それぞれを個別に見れば、必ずしも異常な行動ではありません。
ところが、それらが組み合わさると、
「人間の心理を分析し、最も効果的なメッセージを送り、政治的行動を誘導するシステム」
が出来上がってしまう。
ここには、ハンナ・アーレントが論じた「悪の凡庸さ」を連想させる部分があります。
もちろん、ナチスによる犯罪とデータ企業の問題を同列に扱うつもりはありません。
ただ、
「自分は与えられた仕事をしているだけだ」
という感覚が、巨大なシステムの中で倫理的責任を見えにくくするという点では、考えさせられるものがあります。
さらに重要なのが「外部不経済」です。
企業が利益を上げる一方で、
-
社会の分断
-
政治への不信
-
民主主義の機能不全
-
人々の心理的な疲弊
といったコストは、社会全体に押し付けられる。
企業の会計には載らないけれど、社会には確実に負担が発生する。
これはSNSだけの問題ではありません。
「市場にとって合理的なこと」と「社会にとって望ましいこと」は、必ずしも一致しない。
『グレート・ハック』が突きつけているのは、そんな当たり前だけれど厄介な現実です。
3. 2019年には「裏側」だったものが、2026年には「表側」に出てきた
そして、2026年の現在から『グレート・ハック』を観ると、もっと気になることがあります。
この映画が公開されたのは2019年。
当時の印象は、
「巨大IT企業が裏側でデータを利用し、政治に影響を与えていた」
というものでした。
問題が発覚すれば、企業側が説明し、議会で追及される。
つまり、少なくとも建前の上では、
「テクノロジー企業が政治を操作することは問題である」
という認識がありました。
ところが、それから数年が経った現在、巨大テック企業の経営者やプラットフォーム事業者自身が、政治権力とより直接的に結びつき、大きな影響力を行使する姿が目立つようになりました。
ここで重要なのは、
「裏で暗躍する」という構図そのものが変化している
ことです。
かつては、
企業 → SNS → ユーザー → 政治
という間接的な構造が問題になっていました。
ところが現在では、
政治権力 ↔ 巨大テック企業
という関係そのものが、以前よりも明確に見えるようになっています。
政治側は巨大プラットフォームの持つ情報拡散力を必要とする。
テック企業側は規制や市場環境に影響を与える政治権力を必要とする。
そこにAI、データ、広告、エネルギー政策、独占禁止法などの問題が絡み合う。
こうなると、『グレート・ハック』で描かれた2010年代のスキャンダルが、急に古い話には見えなくなります。
むしろ、
「あのとき始まった問題が、さらに大きな形になったのではないか」
という感覚が出てきます。
4. 私たちは「GoogleやSNSを使わない」という選択ができるのか
では、私たちはどうすればいいのでしょうか。
正直に言えば、
「巨大IT企業を使わなければいい」
という答えには現実味がありません。
Google、Apple、SNS、検索エンジン、スマートフォン、オンラインサービス。
現代社会で生活していく以上、完全に距離を置くのは難しい。
私たちは自らの意思で、
便利さ、安全性、快適さ
を選んでいます。
そしてその対価として、ある程度のデータや行動履歴を企業に渡している。
だから問題は、
「データを渡すな」
という単純な話ではありません。
むしろ、
「自分はいま、何によって感情を動かされているのか?」
と考えることではないでしょうか。
5. 私たちに残された「冷めた視線」
『グレート・ハック』を観終わった後、私が最も重要だと思ったのは、技術そのものを恐れることではありません。
自分自身が操作される可能性を自覚すること。
これだと思います。
スマートフォンを開く。
SNSを見る。
怒りを感じる。
誰かを批判したくなる。
「こんな酷いことを言う人間がいる!」
と思って投稿をシェアする。
しかし、その瞬間に一度だけ立ち止まってみる。
「おっと、今日もアルゴリズムが私の感情を最適化しにきているな」
と。
もちろん、それだけでアルゴリズムから完全に逃れられるわけではありません。
そもそも、自分が何を見せられているのか完全に把握することすら難しい。
それでも、
「自分の感情は、自分だけのものなのだろうか?」
と一瞬考えることには意味があるはずです。
怒り、恐怖、不安、嫌悪。
SNSでは、こうした強い感情を刺激する情報ほど目に入りやすい。
だからこそ、感情が動いた瞬間に、
「これは本当に私自身の判断なのか?」
と問い直してみる。
それが、現代社会で個人が持てる数少ない防壁の一つなのかもしれません。
『グレート・ハック』は「過去の事件」を描いた映画ではない
2019年公開の『グレート・ハック』を2026年に観ると、奇妙な感覚に襲われます。
当時は「未来の危険」のように見えたものが、今ではすっかり日常の風景になっているからです。
SNSと政治。
AIと広告。
データと世論。
巨大企業と国家。
そして、人間の感情を利用するアルゴリズム。
これらはもはやSFの話ではありません。
だからこそ、この映画は今観る価値があります。
『グレート・ハック』が描いているのは、Facebookの一企業による過去のスキャンダルだけではない。
それは、
「人間の心理をデータとして扱い、最も効率的な方法で人間の行動を変えようとする社会」が、どのように生まれたのか
を記録した映画でもあります。
そして恐ろしいのは、私たちがその社会から簡単には逃げられないことです。
「完全にハックされない方法」は、たぶん存在しない。
だからこそ必要なのは、せめて、
「自分はいま、何かにハックされているかもしれない」
と疑うことなのではないでしょうか。
終戦記念日にこの映画を観るのは、最初は少し変な選択に思えました。
しかし、「戦争が終わったから平和になった」と単純に考えるのではなく、
私たちが平和だと思って暮らしている社会そのものが、どのような技術と経済と政治によって支えられているのか。
そこまで考えてみると、『グレート・ハック』は決して戦争と無関係な映画ではないようにも思えてきます。
戦争そのものを描かなくても、
「私たちの社会は、これからどこへ向かうのか」
という問いを突きつける映画はある。
『グレート・ハック』は、そんな作品の一つでした。
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