※この記事はネタバレありです!
1954年公開
監督:マリオ・カメリーニ
主演:カーク・ダグラス

※本作はパブリックドメインとなっていますが、権利関係を考慮し動画リンクは控えさせていただきます。現在はAmazonプライムビデオ等で視聴可能です。
- 【前提】物語を支配する絶対ルール「ゼウスの掟(ゼニア)」
- 記憶喪失と都合が良すぎる「なろう系」展開
- 【回想】掟を破るユリシーズと、自業自得の冒険
- 魔女チルチェの誘惑と「ママー!」的衝動
- 真の主人公ペネロペと、容赦なき「神罰」の執行
- 結び:現代の「炎上案件」男が、神話になる瞬間
【前提】物語を支配する絶対ルール「ゼウスの掟(ゼニア)」
冒頭、主人公ユリシーズの妻ペネロペ(シルヴァーナ・マンガーノ)は、館に上がり込んだ無礼な男たちの横暴に悩まされています。
彼らはペネロペに強情に求婚し、財産を食い潰している。なぜ追い払えないのか?
そこには、古代ギリシャの絶対的ルール「ゼウスの掟(客人歓待=ゼニア)」が存在するからです。
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身分を問わない:物乞いであれ旅人であれ、敬意を持って迎える
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神の化身の可能性:訪問者は姿を変えた神かもしれないという恐れ
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もてなす側の作法:まず食事や酒を振る舞い、満腹になってから素性を尋ねる
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客側のマナー:善意を悪用して居座ったり、財産を食い潰してはならない
この絶対ルールと主人不在が重なった結果、居直った求婚者たちの横暴がまかり通ってしまっているのです。
記憶喪失と都合が良すぎる「なろう系」展開
場面は変わり、とある島に打ち上げられたユリシーズ。彼を介抱する王女ナウシカー(ロッサナ・ポデスタ)は、出会って速攻で彼に一目惚れします。
「現代の『なろう系』でもここまで都合の良い展開はないのでは……」と軽薄さすら感じる場面ですが、ちなみに『風の谷のナウシカ』の元ネタはここから来ています。
ここでも「ゼウスの掟」が機能し、記憶喪失のユリシーズは歓待され、王女との結婚が決まるという絵に描いたようなご都合主義が完成しかけた瞬間——ユリシーズの記憶が戻り、物語は過去の回想へ入ります。
【回想】掟を破るユリシーズと、自業自得の冒険
回想の中のユリシーズは、ポセイドン像を破壊して神の怒りを買い、サイクロプスの洞窟へ辿り着きます。
ここで彼は「ゼウスの掟」を破り、他人の洞窟を勝手に荒らしてしまう。その報いのようにサイクロプスに追い詰めてられ、仲間を食殺されるハメになります。本作の構造的キーは、間違いなくこの「ゼウスの掟を守ったか/破ったか」にあるのです。
ユリシーズは得意の策でサイクロプスに酒を飲ませて眠らせ、危機を脱します。しかし再び航海に出た一行を、今度はセイレーンの歌声が襲う。
ここで不可解なのは、ユリシーズが「歌声を聞きたいから」という個人の好奇心で自分を船の柱に縛り付けさせる点。好奇心旺盛な男のエゴに付き合わされる仲間からすれば、たまったものではありません。
魔女チルチェの誘惑と「ママー!」的衝動
魔女チルチェの島では、仲間がブタに変えられてしまいます。
チルチェを演じるのが妻ペネロペと同じシルヴァーナ・マンガーノなのは見事です。怪しい緑のライティングも手伝い、チルチェが「ユリシーズが最も愛し、切望する女性」の幻影を見せているようにも映ります。
しかし、チルチェの館で愛欲の泥沼に身を沈めたユリシーズは、気づけば半年もの時を無駄に浪費。
愛想を尽かした仲間が出航し直後に全滅すると、自らの過ちに気づき逃げ出そうとします。不死の約束や死んだ仲間の幻影で追い詰めてくるチルチェ。だが、亡き母親の幻影が現れた途端、一種の「ママー!」的な衝動で攻撃を打破し、ついに故郷へと向かうのです。
真の主人公ペネロペと、容赦なき「神罰」の執行
その頃、ペネロペは極限まで追い詰められ、ついに求婚者のひとりを受け入れざるを得ない状況に陥っていました。ドラマツルギーとしては、むしろペネロペこそがこの物語の真の主人公に見えてきます。
乞食に変装して帰還したユリシーズはペネロペに策を授け、「12個の斧の穴を弓で射通した者を夫とする」という試練を課す。
誰も弓の弦すら張れない中、乞食姿のユリシーズが弓を引き絞る——。
ここから始まるクライマックスで、ユリシーズは求婚者と堕落した侍女たちを容赦なく皆殺しにします。そう、これこそが「ゼウスの掟」を破り、客としてのマナーを蹂躙し続けた者たちへの徹底的な神罰(天罰)の執行に他なりません。
結び:現代の「炎上案件」男が、神話になる瞬間
無事にペネロペと再会を果たし物語は幕を閉じる。チルチェからの不死の申し出を拒んだユリシーズであったが、神話という物語になることで結果的に永久の「不死」を獲得したというのは皮肉な話です。
ユリシーズのキャラクター造形は極めて身勝手で自責思考に欠け、現代の観点から見れば到底支持されない「炎上案件」になりかねない男です。
しかし、神々が実在したとされた神話の時代と、1950年代という肉体派ヒーロー映画の時代性——この「2つの時代」が交差したからこその強烈な個性と言えます。
クリストファー・ノーラン監督による『オデュッセイア』の映画化構想においても、この身勝手で人間臭いヒーロー像が現代の基準でどうアップデートされるのか、その予習として非常に興味深い一作でした。
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